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鳥羽のつくり道(鳥羽街道)其の一

 街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

竹田街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<鳥羽街道(鳥羽のつくり道)>>を歩いてみました。

つくり道 

日文研HPより

鳥羽街道は九条「四ツ塚」より東半町にある羅生門より鳥羽に至る道で、鳥羽殿が建てられた後に「つくり道」と呼ばれていた名前ではなく、昔よりこう呼ばれていたと「徒然草」にも記されているようです。御所への大坂からの荷や、瀬戸内からの魚などを羽束師の「草津湊」より陸揚げし、石を敷いた「車道」で都へと運ばれる街道で、昔の商業道路だったようです。

 

起点は「羅生門跡の南ですが、東寺から出発しましょう

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真言密教の北の聖地「教王護国寺」・弘法大師・空海の開祖です

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世界ユネスコ遺産に指定されています

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この米屋さん、虫籠窓を持った古い民家です

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羅城門の旧蹟は朱雀通〔今の千本通〕四塚にあり、桓武天皇平安城造営の時初て建てられました

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「矢取地蔵」

「天長元年(824)旱魃のため、淳和天皇より雨乞いの勅命が東寺の「弘法大師」と西寺の「守敏(しゅびん)」にあった。弘法大師は三日三晩の雨を降らせたが、雨が降らせず、大師を恨みに思った「守敏」は矢を射ったが、身代わりにお地蔵さんが矢を受け、大師は難を逃れた。その背には矢の跡があり、矢追いの地蔵と呼び長く敬ってきました。いつの時代からか「矢取の地蔵」と呼ばれるようになりました」との縁起があります

   

右 やなぎ谷 観世音菩薩  左 やわた八幡宮 往来安全 嘉永七年

 

愛宕常夜燈  天保三年

「矢取地蔵」

さて街道を歩き始めましょう。現在の旧千本通りを南に向かいます

十条通りまでこれといった街道らしきものはありませんでした

 

十条通りをはさんで一対の常夜燈があります。

西にある「吉祥院天満宮」の参道になっているのでしょうか

こちらにもお地蔵様がお祀りされておりました「北向地蔵尊」

簾が涼しげな京町家がありました

 

二体のお地蔵様が並んでお祀りされていました。 小さくても趣きある民家です

  

街道らしい格子や虫籠窓を備えた古民家が街道の両側に見えてきました

  

同じような構えの民家ですが、蔵がありますね

 

板塀、白壁、切妻の丸い文様がいいですね     「正一位稲荷大明神」隣にお地蔵様が同居

久世橋通り旧千本を南に・・・

 

石垣にどっかと建つ蔵と煙抜きが何とも云えませんね

  

六角形の蹲    日蓮宗妙蓮寺     開山日像菩薩

 

門構えがいいですね       卯建つも上がって時代を感じます

 

大正時代の民家でしょうか    格子がしっかりと構えています

   

蔵、板塀、窓、煙抜き、格子、、出格子、犬走り、白壁、石垣、石積 古民家の全てを兼ね備えて、見事です

この辺りには珍しいのではないでしょうか「段蔵」です

良く手入れされていますね。何時までも残してください

 

白壁に板塀一段と高く組まれた石垣     煙抜きも誇らしげです

日蓮宗實相寺

 

本堂         題目石・天保十五年と掘られています

最新の地元新聞に、「石畳の車道が再現」されましたニュースが報道されておりました

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白壁、虫籠窓、煙抜き、格子戸、蔵とこの辺りの民家は、少し南の下鳥羽と違って昔を良く残しています

 

「最栄寺」・十六世紀初頭(寛永年間)創建  開山は上鳥羽豪農「樋口弥左衛門」の次男・日隋上人によって建立

 

煙抜きは使われていませんが手を入れられ保存されています。見越しの松が白壁に映えて緑が美しいです

浄土宗「誓祐寺」・建暦年間(1211~13)に苅萱道心(かるかやどうしん)が開創したと伝えられます

 

 苅萓道心は,説経節「かるかや」や謡曲「苅萓」の登場人物で、高野山へ登る前に一時逗留したことから「刈萱堂(かやんどう)」と呼ばれました。

 

本堂には苅萱念持仏であったという本尊阿弥陀如来像と脇壇にはその子石童丸を思わせる地蔵小石仏が祀られています。 

 

府道「中山稲荷線」より南を望む

 

紅柄塗装と白壁が印象的です

 

同じような格子の民家です。石積みがいいですね

 

浄土宗「行住院」

 

左・薬師堂         右・大日堂

 

左・薬師堂前の石仏    右・大日堂前の石仏

 

薬師堂の扁額と鉦      薬師三尊像

 

参道と本堂

薬師堂と大日堂は山門を中心に珍しい左右対称な建物になっておりました。石積みの上に建っておりました(背面より見た所です)

  

道が緩やかにS字カーブするところに建つ「浄禅寺」

  

「袈裟御前五輪塔」    「恋塚顕彰碑(林羅山撰)」

首塚といわれる宝筐院塔があり、恋塚と呼ばれています。

恋塚由来・北面の武士であった遠藤盛遠は「源渡」の妻である袈裟御前に横恋慕し、叔母には仲を取り持たなければ殺すと脅迫し、袈裟には離縁するよう迫まります。袈裟御前は困った上げく、本当に自分が好きなら、夫を殺して欲しいと盛遠に虚言し、髪をぬらして寝ているのが夫だと言い、自分が夫の身代わりとなって盛遠に頚をとられなくなります。 盛遠は身代わりになった袈裟の貞節を知り、己の大罪を羞じて出家・文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために寿永元年(1182)浄禅寺を建立したといわれています。 

「恋塚」は下鳥羽にもあり、都名所図会によると「恋塚二ケ所あり、いづれとも決しがたし。ある人の曰、むかし此ほとりに池ありて年経し鯉すむ、土人これをとりてこゝに埋むとなん、故に鯉塚ともいふとぞ」とあり、もとは恋塚ではなく鯉塚であるとも言われています。

 

「南無延命地蔵菩薩」

この浄禅寺は京都六地蔵巡りの一つともなっております。この鳥羽・浄禅寺と寺鞍馬口・上善寺、伏見六地蔵・大善寺、桂・地蔵寺、常盤・源光寺、山科・徳林庵の六地蔵を言い、小野篁が木幡山から一本の桜の木を切り出して、六体の地蔵菩薩像を刻み、 その後1157年(保元2年)後白河法皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ヶ所に六角堂を建て、一体づつご尊像を分置されました。最初に六地蔵巡りをされたのが、西光法師と言われます。これが六地蔵巡りの始まりです。

 

六角堂と地蔵菩薩 

   

地蔵堂の額(六地蔵の所在地の額が見えます)

 

本堂と観音堂

 

十一面観音と阿弥陀?石仏

   

石仏群と地蔵石像

 

門前の虫籠窓の美しいお米屋さん    門南の石積みにどっかと建った白壁の蔵

 

街道らしさが残っていますね

  

鴨川を小枝橋で渡ります。 現代の橋 橋より南鴨川の流れ 旧小枝橋

この向こう西に旧橋は架かっていました。上右と見比べると位置関係が分かります。

 

左上(西)からきて、右の写真の左(南)に向かいます。このT字路に碑、道標、案内板が並んでいました

  

「右 淀 八幡」  「左 京みち」

  

「鳥羽伏見戦跡」

この碑は「大政奉還」後に起こった旧幕府軍(約15,000名)と薩摩・長州・土佐軍(新政府軍・後の官軍5,000名)の「戊辰戦争」の端緒となった「鳥羽伏見の戦い」跡の碑です

この小枝橋がその戦いの火花を切ったところです。この戦い以降のあらすじは以下のようです。

 

『倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地を命じた。大坂に引き下がった幕府軍は、慶応4(1868)年元日、討薩表を発した。

1月2日から3日にかけて京都封鎖を目的とし、旧幕府軍主力は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ出兵を開始した。

3日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵との問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。

同日・新政府軍の弾幕射撃によって進撃を阻まれ、伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が薩摩小銃隊の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。

4日は、鳥羽方面では新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。

5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。現職の老中でもあった稲葉正邦の淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。入城を拒絶された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退する。

 

鳥羽伏見の戦い顕彰碑

6日、旧幕府軍は東に男山、西に淀川を控え地の利をえた橋本で迎え撃った。しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が寝返り、砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。

6日、慶喜は江戸に退却し、旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。

鳥羽離宮公園の説明版

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。

9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。

1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。

薩摩軍本営跡

1月25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。

2月には東征軍が進軍を開始する。』

15,000の旧幕府軍でしたが、5,000の官軍の持つアームストロング砲や西洋の火気などには勝てなかったということでした

街道に戻りましょう

 

 小枝橋を渡って真直ぐ東に城南宮があります

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城南宮前のおせき餅本舗・『江戸時代、この地に「せき女」と申す娘が居て、その大道をのぼって来た旅人に茶屋を設け、餅を編笠の裏にならべて、道行く人に食べさせていました。大変、心の美しい、「せき女」は真心をこめて餅を造り、旅人を慰め、いたわったため大変評判になりました。それで「おせき餅」と名をとどめ、その後も永くそこに名物餅が商われつづけてきました』街道名物おせきもちHPより

今回はここまで

次回は鳥羽離宮跡を歩きます